冊子『会いたい』 ~自死で逝ったわが子へ~ Vol.3(2007.12.22発行)

母の短歌      夢幻・無限

○ 又いつかきっと会えると信じるよ その時絆もっと強いよ

○ もうちょっと気楽になれる社会って 必要な気がするんだけれど

○ 満たされぬ世なら自分で作るのだ 幸福感で笑える場所を

○ 自分居て安らぐ場所を作りたい 人は居場所が無いものなのか

○ 今までは心ばっかり見つめてた 友に会いたく外に目が行く

○ 友有りと思えば心強くなり やるべき事も集中できる

○ 適確な時機見はからい育てよう よりどころたる癒しの場所を

○ 大切な友に会う為生きたいな そんな気持ちもやっと芽生えた

○ 我が思いみんな分かってくれるから 一歩踏み出す気力が出ます

○ 我も子も責めないのって難しい でも出来たなら成長しそう

○ 母さんは少し前を見ているよ それは仲間のお陰なんだよ

○ 青々とした稲の穂は前のまま おもちゃを買いによく下りた駅

○ あちらでは魂達は話し合い 我等を結び付けているのだ

○ 子がきっと人に会わせてくれるのだ だって不思議な出合いあるから

○ 温かい大きな人の輪の中に 迎え入れられ生きる喜び

○ 今までに感じた事の無い力 人との出会いには有りました

○ 人の為役に立てよと何らかの 使命を我は与えられしか

○ 傷ついた心でなくちゃ分からない 事もあるのだ自信を持とう

○ 私には楽しい事はもう無いと 思ってたけどそうじゃないんだ

○ 痛み知る人集まればそれだけで 生きる糧です何と嬉しい

○ 死についてちゃんと教えてあげないと 今の子供は生きる気無くす

○ “住みにくさ”何か解消したいです 何故に社会はせちがらいのか

○ 気にするなお前持ってた問題は 解決するよ約束するよ

○ どこに居るかは分からないでも分かる 魂どこかで生きております

○ 魂の居場所分かれば死んでても 納得が行く元気でいれば

○ 昔から流れに乗って来たのです これからも又流れて行くよ


みやぎ自殺対策シンポジウム2007[2007.8.25 於:仙台市シルバーセンター]

自死遺族の声を聴く 千葉 勉

 私はこのような場所でお話しをするのが大変苦手です。でも、どうしてもこの娘たちのために話さなければならない事があります。それはいじめです。娘はいじめが原因で病気になり、そして自殺しました。その経緯をお話ししたいと思います。
 この陰湿ないじめの背景には大人たちが関与しています。いろんな職業の方、いろんな人たちが人から人へ、そして学校へと、学校の不良たちに頼んでいじめをさせました。この写真の娘が十二歳、姉が十四歳のとき、茨城県の大洗に引っ越しました。いじめはそこでありました。特に妹がひどいいじめにあいました。そのいじめの内容ですが、娘から聞いたありのままをお話ししたいと思います。
 ある日、娘たちとテレビを見ていました。その時、偶然にいじめを受けて弁護士になった女の人が出ていたのです。それを見て、妻が「いじめを受けても立ち直って弁護士になった人が出ているよ」と言いました。その時、娘が初めてです。いじめに関して口を開いてくれたのは・・・このように言いました。
 「お父さんお母さんは何も分からないかも知れないけど、私は転校したとき、中学三年生の頭を金髪にした不良たちが二十人くらい来て、私を脅し、そしてトイレの中に連れて行き、押し込まれた。それが一日に何回も授業が終わる度に続いた。それが怖くて、怖くて、未だに夢にまで現れるようになった。それから教室では男の生徒が三人で、私は盗んでいないのに、お金を盗んだのは千葉だ、とそれを言いふらして、クラスの人が全員その人の真似をして、千葉が盗んだ!千葉が盗んだ!と言うようになった」そして先生は、「本当に盗んだのか、千葉?」と言ったので、「いいえ私は盗んでいません」とハッキリ言ったそうです。そうしたら、先生は教室の後ろに全員座らせて目をつぶらせ、「やった人は黙って手を挙げなさい」と言ったそうです。「誰か手を挙げたのか」と訊くと、「誰も手をあげない、逆に後ろのほうから男の低い声で、千葉、早く手を挙げろ、みんなに迷惑かかるから」と・・・。「それでどうなったんだ?」と訊くと、「盗んだ人が分からないために私が犯人にされたままだ」と・・・。その時、私は「その三人だ!お前にいたずらした人達は」と言いました。
 学校ではそのようにいじめられ、家に帰る途中でまた、不良たち十人くらいに呼び止められ、「千葉金を貸せ」「お金はないんです」と言うと、「売春でもやってこい」と、そのように毎日下校時にいじめられていたそうです。いろんな因縁をつけられて、いつも囲まれていたようです。そのため、娘はいつの日か保健室で勉強するようになりました。保健の先生は「私が分かるところだけ教えてあげていた。私がいればこういう事は起きなかったかもしれない」と言っていた、とある人から聞きました。
 それからお姉ちゃんのほうはどうなんだと訊きました。「私もトイレに行くとき、廊下を駆け足で逃げて歩いていた」と・・・。「なぜなんだ?」と訊くと、みんなが「千葉死ね!千葉死ね!」と言うのだそうです。「同じクラスの子か」「中学三年生の全員が言う。それを真似して、全校生が罵声を浴びせる」そうです。このように二人は毎日いじめにあっていたわけです。心の休む暇がなかったのです。それでも姉のほうは高校に行って、強い人が側についたため、なんとかなったようです。
 しかし、妹のほうは保健室の先生が異動になったのです。そうすると妹は頼る人がいないわけです。学校でかばってくれる人がいなくなったのです。そのため、学校を休みがちになるわけです。「今日は運動会の練習だから勉強が無い」とか「今日は写生会だから勉強が無い」とか、いちいち理由をつけて休むようになりました。それがある日、スカートが汚れて、泣いて帰ってきたのです。その時たまたま妻が仕事を休んでいて家におりました。その時休んでいなかったら、まだいじめは分かりませんでした。
 「どうしたんだ?」と訊くと、泣きながら「不良たちが私を七人で神社に連れて行って脅かして、神社には十七歳の少年院あがりの少女がバックについて、鉄の棒を振り回して、七人に一人ずつ私とケンカをやらせたのだ」と言いました。七人とひとり・・・。それで泣いて帰ってきたのです。
 しかし、学校側は何をやっていたのでしょうか。一年生で転校したとき、すでにいじめは始まっているわけです。まして保健室に逃げていて、一人で勉強していたのですから、現実にいじめはあるということです。なぜいじめに対して適切な対応をしてくれなかったのでしょうか。あまりにも教育者としての責任がなさすぎると思います。せめて担任の先生くらいはこのようなことを言って欲しかったです。
 「今、千葉さんは保健室で一人で勉強しています。先輩の真似とか他の生徒の真似をしないでください。誰か心当たりはありませんか。もしも皆さんが他の学校へ転校したとき、千葉さんみたいに二級上の不良達が何十人も来て脅かされ、毎日トイレに押し込まれたらどうでしょう。しかもそれが長く続くのですよ。怖くて、怖くて、勉強は身に入らないと思います。それから同級生に同じクラスの子に盗んでいないのに盗んだと言われたらどうですか。辛いでしょう。苦しいでしょう。そうしたら、どっちが悪いのですか。小学一年生でもわかりますよね。そしたらやめましょうよ。いじめを。皆さんが今保健室にいって千葉さんに声をかけてあげなさい。一人で勉強していますから、かわいそうだと思いませんか。皆さんがそのようにしたのですよ。人を助けるとか人に手を差しのべてあげることは良いことです。それが本当の正しい人間なのです」このようなことを言っていただければ、生徒の状況も少しは変わったのではないかと思うのです。
 それで、娘はもう学校へ行きたくないと言いました。「じゃ引っ越すか」「どこへ行ってもいたずらされるね」「じゃ、水戸へ行こうか」「もう茨城県はいやだ。一人もかばってくれる人もいないし、味方になってくれる人もいない。全部いじめる人ばかりだ」「じゃどこへ行く?」「宮城県に帰りたい」と言うのです。それで宮城県に帰ってきました。帰ってきたけれど、娘の精神状態はボロボロでした。高校は何とか間に合いましたが、一週間目で行かなくなりました。「どうして行かないんだ」と訊くと、「また同じことになる。また不良が声をかけてきた。仲間に入れ」と・・・。それで行かなくなったのです。
学校に行く前にいつも額に汗をかいていましたので、「どうしてお前はいつも額に汗をかいているんだ?暑くないのに」と訊きましたら、「トラウマだ」と「フラッシュバックだ」と言うのです。聞きなれない言葉なので、それはどういう意味だと訊きますと、「いじめられたことが残っているんだ。それが心に残っているんだ。現実にそれがよみがえってくるんだ」と言うのです。額の汗は冷や汗だったのです。
 それで学校に行かなくなり、近くの精神科に二、三ヶ所通院していました。そこで精神安定剤をもらっていました。私も何回も送っていたのでよく憶えていますが、それでも良くなりませんでした。それで娘は教会に行きました。頭から聞こえてくる声、それからトイレに入れられた夢、怖いその夢が現れないように、神さまにお祈りをして治してもらうんだ、と言っていました。
 しかし、教会に行ったのはいいのですが、入ってはいけなかったそうです。人が大勢おりますから・・・。そのため、一番後ろに育児室があるんですけれど、そこでガラス越しに話を聴いていたそうです。その期間はどの位かかったのかわかりません。そのときの思いを書いた娘のノートがありますから、読んでみます。
 「イエス様へ
今日も私の心は悩んでいるままです。聖書にきこうと思ってもどこを読めばいいのかわかりません。イエス様どうか教えてください。生きていくこと、愛すること、どんな意味があるのでしょうか。私はいつも不安です。イエス様、どうか助けてください。助けてください。聖書のどこを読めばいいのか教えてください」
 「イエスさまへ
今日人の前に出られて、人の中にいることができました。本当にうれしくて、うれしくて、仕方がないです。だって、今日も絶対無理だと思っていました。これは絶対自分の力じゃないって、感じました。イエスさまは私が悩んでいることを本当に知っていて、本当に助けてくれたこと、本当にうれしいです。今日は話をすることができて、牧師先生とも話をすることが出来ました。少しずつだけど牧師先生にも心を開いてきているような気がします。もっともっといろいろなことをお話しできるようになりたいです」と書いてあります。
 二歳くらいの子供が話ができたとするなら親としてはうれしいです。が、しかし、大人になった娘が人に混ざれない、話もできない。この娘は小学六年生までは普通の子供でした。教室でちゃんと勉強をして、友達とも遊び、よく近所の子供たちとも同級生たちとも遊んでいました。ごく普通の大人しい優しい性格の子供でした。その娘が大人になっても話ができない、人に混ざれない。これは相当ないじめがあったのに間違いありません。娘はいじめで精神状態が少しずつおかしくなってきたのだと思います。
 例えば、子羊一頭に何十頭の狼たちが群れをなして取り囲むと、羊はただおびえて震えているだけで、逃げ出す事もできません。このような状況で十二歳から十五歳までいじめられたために、おかしくなってきたのだろうと思います。どうしても集団で取り囲まれると圧力がかかりますので、力で押さえつけられるような感じになります。それがとても長かったので、それが怖くて話ができなかったわけです。十二歳から十五歳という一番大切な時期に、心に受けたダメージは相当なものだったと思います。
しかし、これは誰が計画したのでしょう。子供にいたずらをするなんて・・・。普通の大人達は子供に「仲良くしなさいとか、いじめては駄目だよ」と指導する立場です。それが子供に対するいたずらを頼むなんて・・・。それを頼まれた人もどうしてそこで止めなかったのでしょうか。その悪いことを知っていて、そのいじめを計画した人にそのまま協力して、それを不良たちに頼んでいじめをさせた・・・。このグループは犯罪グループで、悪質な犯罪だと思います。
 毎日、二十人以上の集団に一日五回もトイレに連れて行かれ、いじめれば、百人以上の人数になります。それが十日続くと千人以上の数になり、それが長く続くと何万人で二人の子供をいじめた事になります。どんなに怖かったのか計り知れません。それでは夢に出てきたり、頭の中から声が聞こえてくるのは当たり前です。それでも今日はいじめをやめてくれるだろう。今日こそは、やめてくれるだろうと思い、辛い思いで学校へ行っていたと思います。私達両親は教室で勉強していたと思っていました。本当にかわいそうでした。どんな人であろうと、どんな職業の人であろうとなんの落ち度もない、なんの罪もない十二歳の子供に対して、毎日集団でむごいいじめをした事は事実であり、許すことはできません。あまりにも残酷でひどすぎます。この様な人は人間として失格です。娘に対して一生涯謝り続けて欲しいと思います。
 ある日、娘が一晩中寝ないで電気をつけっぱなしにしてあり、私は心配で襖を少しあけて様子を見ていました。娘は一晩中話をしているのです。その動作はこのようにして人を指さして、それを私は見ていました。私にはすぐわかりました。心の中に思っているのが出ているのです。いじめた人たちに何かを話しているのです。
 「あなたも入っていたでしょう。あなたもトイレに押し込めたでしょう。私は何もしていないのに、神社に引っ張っていったでしょう。盗んでいないのに、盗んだって言ったでしょう。あなたも言ったでしょう・・・」と一晩中話をしていました。しかし、口からは声がかすれて少ししか聞こえないのです。怖いために、いじめられたために、声が出てこないのです。我慢していたのが出たのだと思います。私は心配なので、一晩中起きていました。
 翌朝、大きな病院に連れて行きました。診察の結果、精神分裂症だと言われました。大変ショックを受けました。「すぐこの場で入院です。閉鎖病棟に入れます。自殺の恐れがあるので」と言われました。鍵のかかっている病棟です。約一ヶ月入院して治療しておりました。その後退院させ、自宅で療養しておりましたが、精神安定剤とかいろんな薬を飲ませ、夜は睡眠剤を飲ませて眠らせていました。
 ところが、睡眠剤が切れる時間帯だと思うのですが、朝四時か五時ごろに起きていました。「どうしてお前こんなに毎日早く起きるんだ」と訊いたところ、布団の横で黙って座っているんですね。暗い部屋で・・・。そうしたら、「頭から何十人の声が聞こえてくる。それで目が覚めるんだ」と、「がやがやがやがやと頭の中で話をしているんだ」と。「何十人って何人位なんだ?」「二十二、三人位はいる」と言うのです。娘はトイレに入れられたとき、押し込まれて震えながらでも聴いていたのですね。十二歳のときのことです。それが正しい人数だと思います。それが聴こえてきて、夢にまで出てきたりして怖いというのです。それから自殺する三、四日前ですが、教会の奥さんに会いに行っているんですね。「絶対その声は聴かないように。それはサタンの声だから。悪魔の声だから聴かないように」と言ったのですけどね、と奥さんは言っていました。
 子供の日でした。九階から飛び降りました。なぜ九階なのだろう、なぜ子供の日なのだろう、九=苦しい、その声が頭の中から聞こえてきて、苦しいために九階なのかなと、それからなぜ子供の日なのだろうと・・・。この娘がよくお姉ちゃんに話をしていたのですが、「大人になりたくない、子供のままでいたい、ピーターパンのままでいたい」と言っていました。大人になるとまた社会に出ていじめられる、家にいれば安心ということが頭に入っていたのでしょう。
 そしてその二年後、今度は同じ場所、九階から姉のほうが飛び降りました。これもうつ状態でした。
このように私には二人の娘がいたのですが、二人とも亡くしました。夢も希望も途絶えました。このようになったのは全ていじめた人たちの責任です。もし、いじめがなかったら、今日私はこの場所で話をしていませんでした。
 この話をある数人の人に話したところ、偶然に学校の先生が二人いました。いずれも年配者でした。男性と女性です。まず、男性の方はこのようなことを言っていました。「私は教員を三十五年やってきたけれど、一度もそのようないじめはなかった。一対一の喧嘩はあったけれど、一人の人間に集団でやるのは最低だ。一番悪いやり方だ。それでは娘さんの頭がおかしくなるのは当たり前だ。そして、それは学校側に責任がある。分からないわけがない。」と怒っていました。「どうして教育委員会とか役場に行って相談しなかったんだ」とも言われましたが、娘はろくに勉強していないため、なんとか高校に間に合わせたいと思って、そのことしか考えていませんでした。
 それから女性の教員、その方も三十五年やってきた人です。「そのいじめは引越ししてすぐなの?」「そうです」「それはおかしいね、誰かが頼んでいじめさせたんでしょう。しかも上級生が二十人なんて。保健室に逃げて勉強しているんでしょう。そうしたら学校は知っているでしょう。校長先生、教頭先生、いじめがあるみたいですよ、と上にそう言うはずです。」
 また、ある主婦には、「そのいじめが本当だったら、私は許すことができない。私も同じくらいの娘がいるし、そのいじめた人達の子供や孫のところに必ず何代目かには返っていくよ。映画に出てくるような、ドラマに出てくるようないじめでびっくりする。本当に娘さんかわいそうだったね」と言われました。
 それから、元警察官には、「そのトイレに入れたのは監禁状態にしたことになる。それから盗んでいないのに盗んだとするのは名誉毀損、誣告罪に値する。そして、神社に連れてきて暴行させるというのは暴力行為。それは全て犯罪だ。弁護士に頼んで訴えなさい」と言われました。四人が四人とも「学校やいじめた人達が悪い」と言いました。これが正しい人の見解だと思います。
今、妻と二人で暮らしています。娘の祭壇に手を合わせるとき、胸が痛みます。引越して行かなければ良かった、辛い思いをさせてしまった、苦しみ死なせてしまった、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、と謝る他ありません。
 男の私でこんなに苦しいのですから、腹を痛めた妻はもっと苦しい訳です。このように私たちを不幸にしたのも、子供たちを不幸にしたのも、全ていじめた側の全責任だと思います。「絶対」という言葉を使わせて頂きます。絶対、百パーセント、いじめた人、いじめを頼んだ人たちが悪いです。
 最後に、妻のメッセージがありますので、読ませていただきます。
「二人の娘を授かり、すくすく育っていく姿を見て幸せを感じて過ごしていました。茨城県に引越し、まさか娘たちがいじめにあっているとは思いもしていませんでした。私が最初からいじめに気がついていれば、学校に抗議に行ったことでしょう。病院に入院し、娘の症状が次第に変わっていくのを見て、涙が止まりませんでした。なぜ娘がこんな病気になってしまったのか。私はいじめた人たちも同じ苦しみを味わい、同じ病気になってもらいたいという気持ちです。これから娘たちは結婚もし、子供もできたことでしょう。私も孫を見られたかも、と夢がありました。それをいじめという行為で、娘たちの、そして私たちの幸せを全部奪い取ってしまいました。娘が話をできなくなるほど、脅かし、苦しめ続けた人たちを私は許すことができません。」
 これで終わらせていただきます。ご清聴ありがとうございました。


みやぎ自殺対策シンポジウム2007[2007.8.25 於:仙台市シルバーセンター]

自死遺族の声を聴く 三上なつよ

 本日はお話できる機会を頂いた事に感謝致します。 
 私には三人の子供があり、自死した息子は二男でした。二〇〇五年六月家出をし、十月彼は自分の車の中で排気ガスにより享年三十二才の命を自ら終わりにしたのです。 
 三十代と云えば夢もあり希望もまだまだあったはずだし、なにかのトラブルがあったとしても、充分にやり直せる年なのに、なにがあったのか、なぜなのか、そればかりが今でも頭の中でうずまいて彼を探し出せなかった自分を責め続けています。 
 彼は「自分の人生から逃げます」と云うメモを残しています。「ダメな息子ですみません」とも書いてありました。 
 母の私からみた彼はダメな子ではまったくなく、むしろやさしすぎたし、いい人すぎたのです。生きる事に正直で真剣に生きていたのです。なぜ、自分の人生から逃げなければならなかったのか、その理由は未だに分からなく、そしてもう彼に訊く事もできません。 
 家出をした夜、彼は明るく私と雑談をし、笑って出て行ったのです。残されたメモを見た時にも、私は自殺に結びつける事ができなかった愚かな母でした。死にものぐるいで彼を捜していたなら、彼を自死させる事はなかったのです。誰よりも大好きだった大切な息子の命を私は見殺しにしてしまったのです。 
 彼は生まじめな性格ではあったけれど、ユーモアもあり、とても穏やかな子供でした。小学生の時は空手を習っていて、お兄ちゃんとケンカになると、「空手をしてる人はケンカしちゃ駄目なんだよ」と目にいっぱい涙をためてガマンをしていた姿が目に浮かびます。自死をすると決めた時、あの頃のように何か辛い事にじっと耐え、なぜか三十代の彼と小学生の彼とが重なってしまいます。あの頃、彼を抱きしめたように、見えない姿をだきしめてはみるものの、頼りない感触に無性に会いたくて・・・・・・。ただ、むなしさと淋しさだけが残ります。 
 水道設備の仕事についてから約十年。必要とする資格も全部取り、彼の夢は水道のない所に行って、水道を作る事でした。テレビで水道ができて、大喜びしている人々の顔が映し出されると、まるで自分が作ったかのように、「お母さん、ああいう顔に出会えるんだよ、いいよね。俺、絶対行きたい」と話していたのに、そんな話をして一年も経っていないのに、「あなたに一体何がおこったの!!何があったの!!」私の問いかけに、笑顔もなく、声もなく、ただ淋しそうに、遺影の彼はほほえむだけなのです。 
 警察での遺体確認後の私の心は不思議なものでした。立つこともできず、泣き叫ぶ私を、娘と婦警さんは、私を抱えながら車まで連れてきてくれました。家族が話を聞かれている間、私は一人車の中で身動きもできず、訳も分からず、なぜ!!なんで!!と自問自答をくりかえしていたのです。どうしても答えがほしかった。ようやくたどりついた答えが「私が息子を殺したんだ」と云うことでした。その想いは今も心から離れません。 
 それからは泣くこと話すこと考えること生きることさえ私の意識の中にはなく、今思えば、なぜなんでと息子に問いつづけ、なぜ自分が生きているのかが分からない。体と云う物体のみが勝手に動いていて、「もうどうでもいいや」と動くその物体に早く止まるよう願っていた、そんな日々だったと思います。 
 人は死にたいからと云ってなかなか死ねない。かんたんに自死はできないものですね。 
 「もう限界だよ」と息子にいいながら新聞を手にした時、目にとびこんで来たのが、「いのちの電話」という大きな文字でした。ふしぎに思いながらも、「ここに電話しなければ」と無意識に電話した事をはっきり覚えています。 
 これが「いのちの電話」へとつながります。 
 「もう生きていけないかもしれない」そう告げた気がします。 
 担当してくれた田中さんはやさしく、そしてさりげなく話を聞いてくれて、そのあとも電話やお手紙をいただき、私は命をつないでもらった気がします。 
 今思うと、自分の心のコントロールができず、記憶も曖昧な時、田中さんの声は「生きるのよ」とささやいているようで、それで命をつないでいたのかもしれません。そして、「藍の会」を教えていただきました。 
 「いのちの電話」から「藍の会」へとつながります。代表の田中さんへ電話をしたのです。代表の田中さんもまたとてもやさしくて、ひとこと話すだけで全部を分かってくれているようで、離れていた心が戻るような気がしたのです。電話のあとすぐお手紙をいただき、その手紙は、生きる気力のない私に、私が親である事を気付かせ、生きる意味さえをも教えてくれるものでした。 
 こうして私は偶然にも二人の田中さんに命をつないでもらったのです。それも心がきれかけた頃に電話や手紙が届き、私は生かされていました。今、こうして話をしている事が一年前にはとても考えられない事です。お二人に助けられた命です。言葉にできないほど感謝の気持ちでいっぱいです。本当に、本当に、ありがとうございます。 
 「藍の会」の人々とつながった事で私は生きようと思えたし、ゆれ動く心をなんとかコントロールする事も覚えました。そして皆さんから勇気やパワーをもらい、励まされています。時には落ち込み ながら、「それでもがんばる」というかぎりない優しさにふれる事ができ、私の命は今、元気にしています。 
 「藍の会」のみなさん、悲しいつながりではありますが、私はつながれた事に感謝しています。そしてみなさんにも心からありがとうございます。 
 幸い、仙台には自死遺族へあたたかい手を差しのべるグループが三つもあります。それぞれの違う立場から、支えてもらえる事はとてもうれしい事です。ただ、遺族といってもさまざまな立場があり、問題を抱えてそれを解決しなければ哀しむことすらできない場合もあります。そして糸口すらみつけられず、絶望し、自死へつながる事も。でも、それは助けられる命ではないかと思うのです。 
 たとえば私の場合、「いのちの電話」から「藍の会」へとつないでもらった事で、今生きています。もし、「いのちの電話」だけで終わっていたら、私は息子の後を追っていたと思うのです。自ら「わかちあいの会」をさがそうとは思っていなかったし、彼の所へ行きたかった。でも、私にはわかちあいが必要でした。 
 このように、何かとつなげてもらう事はとてもありがたい事です。もう少し望みを言わせてもらうなら、どうか「かたち」にこだわることなく、中味のある会であってほしいのです。そのためなら、私達 遺族も何かの役に立ちたい、哀しみだけのわかちあいではなく、遺族が抱える問題もうけとめ、それらの解決のためのつながりをもあわせもつ会、それが本当の自死遺族支援になるのではと、私は希望したいのです。 
 お互いのグループが共に尊重し、認め合い、助け合いながら、せめて仙台から自殺予防への大きなひろがりが発信できるようなそのような会が運営されることを心から願っております。 
 身内から、「家族の恥は隠しておくもの」と云われます。家族の恥とは自死した者への言葉なのか、それとも自死された者への言葉なのか、両者かもしれません。 
 「自死は恥なのでしょうか?」 
 決してしてはいけない事ではあるけれど、彼は一生懸命生きたのです。最後まで生きようと思っていたはずなのです。でも生きられなかった。家族とて誰が自死させたいと思うでしょうか。誰しもが一緒に楽しみ、一緒に苦しむ事を願い、支え合って努力し、生きているのです。そのような言葉をかけられたなら、口をつぐみ、自死した者を忘れようとし、思い出の中にさえ、入れてもらえなくなるのです。言えないことが心の重い蓋となり、苦しみや辛さからなかなか抜け出せないし、生きる気力さえなくしてしまうのです。思っていても、口にしてほしくない言葉です。 
 今、このようなさまざまな言葉をかけられて苦しんでいる人、また、せめて自分だけでも想いを口 にしたいと思っている人がいたら、一度でもいいから、「どこかのわかちあいの会」とつながって、その想いを口にしてみてください。つながる事によって、少しでもあなたの命は元気になれる、私にはそう思えるのです。 
 そして、今死にたい、死のうと思っている人に言いたいのです。 
一人で苦しまないで下さい 
助けてと「声」にして下さい 
もう誰にも自死してほしくないのです 
生きて下さい 行きぬいて下さい 
私のこの姿は自死された母の姿です 
あなたが自死すればこのような姿が 
沢山沢山生まれてしまうのです 
死なないで下さい 生きて 生きぬいて下さい 
その命はあなただけのものではないのですから 
今をのりこえれば あきらめなければ 
いいことがきっときっと待っているはずなのです 
生きるために あなたは生まれて来たのですから 
 「藍の会」へつながるまで、私は生きている実感はありませんでした。もちろん、息子の死に対峙しようとはまったく思っていなくて、むしろ息子の死はなかった事にしようと逃げていた部分がとても大きかったと思います。代表の田中さんの配慮でさまざまなキッカケを作っていただき、自分の想いとは関係なく、そのキッカケに参加した事によって、知らず知らずのうちに今では息子の自死に正面から向き合っているような気がします。 
 この一年の私の歩みは全て息子の采配によって行われたつながりだったのではないかとも感じております。彼は死んでなお、私にいろいろ助け舟を出しているのだから、それをきちんと受け止め、私は彼に恥じない生き方をしなければならない、そう思えるようになりました。前を見て、きちんと生きていきたいと思います。 
 ありがとうございました。


みやぎ自殺対策フォーラム2007[2007.9.20 於:宮城県民会館]

自死遺族の声 田中幸子

 こんにちは、田中幸子といいます。
 本日は知事をはじめ、行政の方々、たくさんの心ある方々においで頂き、この壇上でお話しができます事に感謝をしております。実は厚かましく真ん中に立って話したかったのですが、主催者側のご配慮で座ってということになり、このまま座って話します事、お許し下さい。話したいことがたくさんあって、迷いました。憤って憤って過ぎた一年半でした。本日は自死で息子を亡くした母としてお話しをさせて頂きます。
 自死、耳慣れない言葉と感じる方もいらっしゃるのではないでしょうか。皆さんはどんな事を想像しますか?苦しみから逃げた人、勝手に死んだ人、死ぬ位なら、とか弱い人と思う人が多いのではないのでしょうか。私も正直、「死ぬなんて!!」と漠然と思っていました。
 二〇〇五年十一月十六日夜十一時頃自宅の電話が鳴るまでは・・・幸せいっぱいでした。亡くなった息子は結婚していて、子供にも恵まれてトントンと出世して、主人も次男も私も健康で病気をしたこともなく、温泉旅行だカラオケだ、孫を連れて遊園地だ動物園だと毎日幸せな不平不満を言いながら、結婚三十五年を迎えようとしていました。幸せでした。
 あの日の夜は満月でした。突然の電話・・・主人が電話を取り、「死んだ!!」「健一が!!」と次男も起きてきて、「死んだ!!お兄ちゃんが!!」としゃがみ込んでしまいました。私の頭の中は「死んだ!!誰、なぜお兄ちゃんが!!」と三人呆然自失の状態でした。夢なのか現実なのかとにかく確かめよう・・・と車の運転は無理としてタクシーで駆け付けました。官舎に入ろうとしたら、「検死しています」と言われ、突然、生前息子から聞かされていた検死の様子が浮かび、「死んだ!!」と現実になり、気を失ったのです。
 息子はフトンに寝かされていました。生きているような顔、でも冷たくて頬に手をあて、息子の血と私の血を取り替えて、と願って・・・冷たい息子の頬を両手で包みなでて、私の命と取り替えて、今すぐ私を死なせて息子を温かく生き返らせて・・・とどんなに手をあてて温めたくても冷たくて冷たくてピクリとも動かない息子。カーチャン、カーチャンと私を呼んでいた息子。
 亡くなった年の五月、多賀城市で飲酒運転によるRV車の事故、高校生が三人亡くなった大きな事故、あの事故の事故処理係長が息子でした。四月に転任して五月の事故でした。あの日休みだった息子は呼び出され、それから自宅療養になる十月までの四ヵ月半、一日も休みことなく働く事になったのです。
他の事故も重なり、山のような仕事に追われていったのです。「誰かに手伝ってもらったら・・・」と言う私に、「皆んないっぱいいっぱいなんだよ!俺の仕事だから仕方ないよ」と何度か言っていました。誰も手伝うこともせず、見て見ないふりをして夜遅くまで仕事をしていると「わざとらしい」とか「まだ出来ないのか」と言われ、朝早くに出勤して今来たかのように回りに気を使い、仕事をしていたようでした。転任して初めての仕事の息子に上司命令で仕事のやり方も教えることもせず、手伝う事もしないで、「田中の仕事だから・・・」と無視を続けていた人たち。そのうち、パトカーの音がすると夜中に飛び起きるようになり、めまいや吐き気がして仕事の合間に病院に通っていました。
息子の話を聞いて、私たちが精神科を勧めたのが九月でした。そして、市内の病院に行き、彼は又傷ついたのです。「田中さん、ここが名前を書く場所ですよ、わかりますか?」「読みましょうか・・・」と言われたのです。「俺は現職の警察官だ!!」と憤り、精神科を拒み、職場に近い心療内科に通ったのです。十月になり、自宅療養という形を取りました。そして又彼は家庭で「何を考えているんですか、どうするつもりですか。ゴロゴロ寝てばかりいて子供の面倒も見ないで仕事もしないで・・・」と言われ続け、「ごめんなさい」と謝る息子は更に叩かれ、ヒステリーに物を投げつけられていたのでした。亡くなった直後に告白されました。「お義母さんすみません、言われていた事と逆のことをしていました」と謝る姿に孫の事もあるので、何も言うまいと思ったのです。息子の携帯に同じ内容のメールが何十通もあり、その返事のメールもあり、その内容は「すみません、ごめんなさい、申し訳ありません、頑張ります、もう少し待って下さい」そんな言葉が何十通も続いていました。
人生最後の一週間、ひとりぽっちで何も食べず、飲まず、連絡を断ち、信号は送ったのに無視をされ続け、それでも玄関のドアにはカギはかけずに最後の一瞬、誰かに止めて欲しかったのでしょうか。一度ではなく、数回ひきずった後が残っていました。彼のメガネは涙の塩でまっ白でした。メガネが白くなるまで彼は泣き続け、黙って逝ってしまいました。
息子が亡くなって二週間で今度は私を罵りました。嫁とその両親に「人殺しです。息子さんを殺したのはあなたです、教養のない女、葬式の時に泣いてばかりいてバカな女だ」まだまだたくさんの罵声を浴びせられました。「仏壇も位牌も要りません!!」と言い、莫大な金額の生命保険、退職金、埋葬金さえも持ち、「保険金で二世帯住宅を買いますから、もう娘には一切かまわないで下さい!警察に訴えますよ!!」と意味不明なことを言い、実家に戻って行きました。それからは着信拒否やハガキの受取拒否をされ、親の私たちに残ったのは、遺品もなにも無く、遺骨だけです。反論はしなかったのです。「お兄ちゃんは争うのが嫌いだから、死んだんだよ!お兄ちゃんの遺骨の前で争うのはやめな!」と次男に諭されたのです。
息子は死んで骨になり、身ぐるみはがされ、裸で放り出されたようなものです。いろいろな人たちに相談をしました。法律も心あるものではありませんでした。息子は何か悪い事をしたのでしょうか。逃げたのでしょうか。勝手に死んだのでしょうか。
仕事、病院、家族、全て人間関係です。私も含め、ほんの少しの思いやりがあったら、助けられた命、助かった命でした。
三十四年生きた彼は遺骨になり、私たちのところに戻って来ました。私たちは息子の死をかくそうと思った事は一瞬もありません。葬儀の席で夫は「息子は自らの手で人生を終えました大バカヤローです」と語りました。大切な我が子の死、死んだという事実だけでいっぱいでした。亡くなったことが全てでした。
死に差別があるのでしょうか。病気や事故は語れるりっぱ?な死で、自死は恥ずかしい死でしょうか。魂は平等です。生きている私たちの心の中に差別があり、それを神さまや仏さまの社会のせいにしていないでしょうか。楽しく笑って死ぬ人はいません。死は人間が最も恐れるものです。だから病気だ、病院だ、薬だ、終末医療だ、とか言われるのではないでしょうか。好んで死んだのでもなく、勝手に死んだのでもないのです。「生きられない!!生きていられない!!」と絶望に追い込んだものは何でしょうか。その問いかけを生きている私たちがしっかりと受け止め、やさしい人たちがやさしいままで生きられる世の中にする責務が私たちにはあるのではないでしょうか。
人のせいにしない事、社会が悪いとしたら、自分もその社会の一員なのだと自覚して、社会や周りに変わって欲しい、ではなく、まず自分自身をふり返り、自分が今よりほんの少しの思いやりを持てたら、社会は大きく変わることになるのではないでしょうか。
語れない死でしょうか。亡くなった人たちが生きている私たちを見ています。言葉は大切です。ほんの少しのやさしい言葉が人に生きる力を与え、傲慢な言葉は刃物よりも心を深く傷つけ、手を汚すことなく、人を死に追いやります。完全犯罪の殺人です。いつか自分にこの問題が起きないと誰が断言できるでしょう。私もひと事だったのです。息子を亡くして半年で藍の会を立ち上げた時から、支援とは、ケアとはどういう事なのかを考えています。支援します、という団体に丸投げをしてお茶を濁すのではなく、地元の遺族の声を聴いて下さい。生の声、現実を地元を見て頂きたいのです。
私の命より大切な息子を助けられなかった気の遠くなるような人生の大失敗の話しと、反省と悔やみの中から見えて来た事を聴いて下さい。宮城は今多くの遺族の声が表に出ています。お願いです。無視や見て見ないふりをしないで下さい。せめてここにいらっしゃっている皆様方お一人お一人が少しだけ、今よりほんの少しだけ人を思う心を持って頂けたら、大きな自死予防になり、たくさんの命を生かすことになると信じています。
悲しみは回復はしません。悲しみと共に生きることが出来る力を心に持てるようになること、自分の心に栄養を、それが前向きに生きるという事なのだと思っています。私は息子を誇りに思っています。息子は真面目に頑張って一生懸命生きました。本日はありがとうございました。


遺された物への追憶   K(コス)・M(モス)

 今朝も炊きあがったご飯を、ぐい呑みほどの大きさのお茶碗に盛りつけて仏壇に供える。
 この茶碗は今は亡き長男が小学四年生の時に、学校の工作課程で創ったものである。色合いは、しゃれて現代風に言えばピンクグレーとでもいおうか。創った二つのうち、もう一方はブルーグリン、こちらはお茶専用に供えている。
 どちらもかすかに幼い指の跡が残されている。きっとその時の彼の胸は創作の期待にうねり、夢中でこねたであろうことか。私は、その残された指の跡をなぞり、また時には胸にかき抱き息子を思慕するあまりに、幾度か忍び泣いた。
 数年前この地に移住するとき、私は食器類の多くを思いきって処分してしまった。それが息子が亡くなってから、急にこの茶碗のことを想い出した。思いつくかぎり大探しをしたがどうしても見つからない。もう捨ててしまったものと諦めていたところ、それが思いがけない所から出てきたのだ。「あったッ!あったッ!」私は狂喜した。俗にいうこれが虫の知らせというものか。これだけは捨てられなかったものとみえる。だが、まさか!鬼籍に入った息子専用のご飯茶碗になろうとは誰が想像出来ようか。おそらく彼自身も自分がこねた茶碗のことなど憶い起こすこともなく逝ってしまったことだろう。
 彼がいなくなって二年二ヶ月、部屋はいまも在りし日のまま。ベッド、机はいうまでもなくとりわけ宝物であった何丁かのギター、夥しい数の書籍類、CD、等々が、まるで外出している彼を待っているような感じである。「あの子はアンタ達をほっぽって置いて、どうして帰って来ないんだろうね。イヤ、でも一旦、十万億土とやらの道に向かったのだからきっと、帰って来るにしても容易ではないのかなぁ。けど早く引き返してくれないと母さんと行き違いになっちゃうよね」ふと、気がつくと私はこれらの遺品にときどき語りかけている。何と虚しい語りかけだろうか。そして、いつも自分の吐いた言葉の余韻が、まるで虫の羽音のように頭の中でしばらく騒がしく、だが、それもやがてゆっくりと消えてしまうとそれまでの何倍かの寂寥感が襲いかかってくるのだ。
 それはよく晴れた秋の日のこと、玄関の戸を開け放ち、風通しのよいようにシューズボックスの扉も開け放した。と、一番下の段に並んでいる長男の靴が目に飛び込んできた。茶、黒、ベージュ。かつてはどの靴も、通勤とか出張、あるいは海外出張、友人との飲み会、ライブハウス等々、コツ、コツ、コツ、と石畳を踏んで玄関に辿りつく靴の音は、私の胸に平安をもたらしてくれたものである。並んだ靴を手に取ってよく見ると、その殆どにうっすらと黴が生えている。今更のようだが、私はここでもまたもや彼の死を再認識しなければならなかった。黴の存在はとりもなおさず、息子の「かくも永き不在」を否応なしに物語っている。彼の死をどこかでまだ認識したくない私にとって、黴を目にすることは新たな衝撃にほかならない。
 靴は爪先が薄くなっていたり、内側が減っていたりしている。愉快な日、憂鬱で寂しい日、噴き上げるような怒りの日もあったかも。それらの想念を包んで彼を運んだ靴のどれもが私にはひどくいとおしい。「もう一度このブーツを履いてあの音を聞かせて」思いはいつしか呟きになっている。足癖の悪い彼がよくそうして脱いでいたように、磨き終えた靴の一足を玄関の土間にハの字に置いてみた。すると、まるで彼が二階にいるような錯覚を覚える。今度は片方を転がしてみる。錯覚はますます濃くなった。私は激しい動悸に胸を波打たせながら、彼の姿を求めて二階へと階段を駆け上がらずにはいられなくなった。


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