遺族の想い


父は厳しい人でした。外出先で挨拶ができなければ置いて帰る、門限を守らなければ手をだす...怒ると少し手を出しがちな人でした。
そんな父に対して抱いていたのは「恐怖」でした。家にいるときはいつもびくびくしていました。
でも優しいところもありました。父は車が好きで、ドライブによく連れていってくれました。運動会のかけっこで1位になったら自転車を買ってあげると約束したのに2位になって泣いていたら次の日に自転車を買ってくれる様な人でした。
とにかく13歳までの私はまだまだ幼く、父という存在は大きなものであり、人として弱い部分もあるなどと察することなどできずにいました。これは歳を重ねていくとわかるものなのではないでしょうか。
父が自死する前日、父の日のプレゼントにストラップを準備しました。その頃父は夜まで外出しているか家で寝込んでいることが多く、何か変だなとは思ってはいたもののそれを指摘はできませんでした。なにせ父は「怖かった」ものですからそんなこと聞けるわけがなかったんですね。
そんな父にせめてもの励みにでもなればと思いストラップをプレゼントしました。父は嬉しそうに携帯にストラップをつけていました。少し安心して私は眠りにつき、朝起きたら父は死んでいました。
近しい人達はみんな混乱していました。母は憔悴しきっていました。幸い近所に父母が若いころから親しくしていた人がおり、葬儀などの準備を手伝ってくれました。
私はというとまだ現実に心が追いついていない状態で、「学校は何日くらい休まなきゃいけないんだろうなぁ」なんて呑気なことを考えていました。母に「これから兄弟と私とで頑張ろうね」と抱きしめられて始めて
「あぁ、父は死んだんだ」
と思い、悲しみなのかなんなのかわからぬ涙を流しました。
そしてそのとき気づきました。「恐怖」の対象であった父が亡くなり安心している自分に。
私は自死の被害者でもあり、加害者でもあったのです。
だって父がいない家で過ごす時間はとても落ち着くと感じていたし、だからこそ父を避けていた。父の様子が変だと気づいていながら放っておいたのだから。
だから父は死んだ。私が内心消えてほしいと思っていたから。
こんな話とてもじゃありませんが13歳という思春期の多感な時期に友人に話せるわけがありませんでした。自分のことを気持ち悪い生き物だと感じるようになりました。
でも父という存在がいなくなり生活は様変わりし、心の中にぽっかり穴が空いたような、なんともいえない喪失感がありました。そしてこの喪失感と、父の死のことを誰にも打ち明けられないという状況が孤独を呼び込んでいました。
父が自死して以来私の中で「孤独」という感情は常に心の中心にありました。普通に勉強していても、部活で汗を流しても、友人と笑顔で話しているときでも...いつも。
父を見捨てた娘として白状な自分、父に捨てられた子供として傷ついた自分、その両方が私の心の中に混在し肥大化していき自身に重くのしかかっていました。
しかし時間が経つにつれ少しではありますが自死に対するショックというものは和らいでいきました。なぜ自死までに至ったのかという経緯や、父の昔話などを母に聞けるようになり、次第に「恐怖の父」は「一人の弱い人間」だったんだなぁと考えられるようになりました。
だけど孤独感は変わらずに自分の心の中に残っていました。「自死遺族としての自分」を誰もしらないということにさみしさを感じておりました。理解して受け入れてもらいたいという欲求が高まるようになりました。
高校時代からでしょうか、ネットがかなり普及し自死の報道も増えるようになりました。
そうして目にするようになったのは
「自死するやつなんで馬鹿だろ」
「自死した奴の家族は自分が殺人者だと自覚しろ」
「自死とか周りにいたら引くわ」
という様なネガティブな言葉でした。それを見るたびにショックで、だけれども放置して忘れることもできなくで、「自分の父親が自死した話なんてしちゃいけないんだ」と思うようになりました。
そうして思い悩んだ果てに行き着いたのが
「父が自死したこっなんか跳ね除けて強い人間になってやる!私は常に頑張らなくてはいけない!」
という超ポジティブ系挫折しない人間を目指すという少し行き過ぎた考え方でした。
「自死のことは誰にも話してはならない」
「私は自死遺族として常に落ち込まないで努力すべきだ」
という強迫観念的な考え方でした。
この考え方がある程度私を成長させてくれた部分はありました。でも友人の「自死なんてありえないよねー」などの批判的な言葉を聞くと心はとても動揺していました。「お前はもし今ここに自ら死にたいと考えている人がいたらどうするんだ。なんて軽率な発言なんだ。」と腹を立てていました。結局のところ孤独感を抑圧させてるだけに過ぎず、この考えを続けた結果大学時代にうつになりました。
うつになってからはひどいもので、楽しそうに学生生活を送っている兄弟を妬んだり、母に「私だってなりたくてうつになったんじゃない!自死者の娘になったんじゃない!私がこうなったのも父のせいだ」と当たり散らすようになりました。そんな風に叫んだあとには誰にも理解されないという孤独感に潰されそうで泣いたりして、本当に家族には迷惑をかけました。
楽しそうに学生生活を送っている友人もにも腹がたった。家族旅行で別荘にきているという話を聞けば「お前の家は幸せでいいな。私は違う、自死遺族だから」と苛立ったり、
とにかく世の中のなにもかもが敵に思えました。自分を理解してくれるものなどこの世にはないのだと、死ぬことも考えてました。うつになり落ちるとこまで落ちるようになりました。
でもそうやってプロセスを得ることで次第に孤独というものに向き合えるようになりました。前に他の記事でも書いたことがあるのですが、他の自死遺族の方の書物やネットの書き込みなどを読んだりして、この孤独感は共通のものなのだと知ることができました。共通のものとしることで、私の中の孤独は小さくなっていきました。
今では父のことを思い出しても、ただ思い出としてぼんやりと残っているだけで、私にとっては父が亡くなってからの生活のほうが抜け出せない地獄として強く印象付いています。色んな人にこの経験を吐露してきたけれど、結局悲しさも寂しさも私にしかわからなくて、家族ですらも本当の意味での共感などないのだと思わされる日々です。でも心のなかに誰にもわかってもらえない部分があってもいいのだと受け入れることもできるようになってきました。私は私の悲しみを抱えながら生きていきます。



逢いたいよ

私たちの気持ち
教会に行った
ミサのあと 「ひさしぶりね」
あいさつを交わした
「お元気で」
「ええ まあまあ」 そのあと
「それはよかった いつまで想っていてもねえ 
お母さんが元気にしていなくては 天国へいけないわよねぇ」
と、その人は言った
やっぱり こどもをなくしてみなくては
わからない
自死遺族でなくてはわからない
私の気持ち 私たちの気持ち
恨む心


竹井京子

人を恨む心を知りました
世の中を恨む心を知りました
大地がいなくなってから

外へ出れば 人はみな幸せにみえてしまう
子どもと手をつなぎ ショッピングする親たち
孫といっしょにお出かけのじいちゃん、ばあちゃん
私には もう子がいない
いなくなってしまった
あのときあなたを 死なないで と抱きしめていたら
あなたは死なずにすんだのかもしれない

こんな苦しいことがあるだろうか
人を殺しても 自分ではないという人もいるのに

だが わたしたちにとって あの子が死んだのは
あの人が死んだのは 私のせいかもしれないのだ

人を恨むようになった
世の中を恨むようになった

あの子も恨んで逝ってしまったんだろうな
世の中を 親を そして自分を 恨んで
あまりに大きな苦しみは 悲しみは
人の心に恨む心を育むことがあるんだろう
会いたい

あの子と同じくらいの年頃の子が
自転車で走っていく
あの子だったらなあ~
ああ 会いたい あなたに会いたい
姿をみたい そこの街角で
じいちゃんの黒いオーバーを着込んで
寒空を自転車で 走りぬける
あなたが みえる


夢幻・無限

○ この子でなくて私が死んだよう この世の中は真実なのか

○ 他の人には分からない どれ程の 苦しみ感じ生きているかを

○ 名を呼べば甘い情感胸に湧く きっとこの子が応えてるんだ

○ 心だけつらいこの世を抜け出して 夢でこの子に会いに行きたい

○ 幸せにしたいと思い進ませて 何故こうなるか母狂おしい

○ 我は死が一番恐いものだった 知ったからには恐いもの無い

○ 苦しくて訳がわからずどうしたら いいか分からず歌作るのみ

○ 死の方が本来の良い環境で この世の方が苦しみらしい

○ 亡き人と対話するのは難しく 我は想像働かすのみ

○ 理不尽でとても耐えられないのです この世は不条理だらけ

○ 傷ついた母の言い分聞いてよと 声を大にして叫びたいです

○ あちこちに連れて出かけた思い出が 蘇るから今日は悲しい

○ もうちょっと人生楽しいはずだった  人生なんと辛いのだろう

○ 頭から我が子離れる事は無い だから一緒に生きるんだよね

○ 楽しみは何かと聞かれて無いと言う 何をやっても悲しみが有る

○ 遺族ってつながりたいね一人でも 多く気持ち分かり合いたい


無題

「逢いたいよ」
もう十カ月たったよ
君を失ってから
あの日からどうやって生きてきたのか
思い出そうとしても思い出せないこともあるよ

去年の今日は何してたかな
きっと、いつものように夕ご飯作って君を待ってた
お風呂も沸かして
君の好きなビールも冷やして
エアコンで部屋をキンキンに涼しくして
ずっと君を待ってた、あの部屋で
いつも帰りの遅い君を

君に逢いたいよ
一緒に眠りたいよ

どうやったら君に会えるんだろう?
どこまで走って行ったらまた見られるんだろう?
向日葵のように咲く、満面の君の笑顔を
娘に命を引き継いだ息子


都 わすれ子

 私の息子は平成18年2月23日、ある湖のほとりの公園駐車場で車の中で練炭を焚き、36歳5カ月の人生を閉じました。
 息子は小さい頃から手のかからない自立心の強い、明るい子供でした。小学校卒業時の将来の夢は、科学者になる事でした。中学校の夏休みに取り組んだ自由研究のテーマは、変光星の観測でした。大学の修士課程を卒業し、ある電子部品メーカーの研究所に就職しました。修士時代に一時、何が原因かわかりませんが、精神的に落ち込んだこともありましたが、それを乗り越えて就職しました。
 就職した翌年、大学時代から交際していた彼女と結婚し、毎年国内、海外旅行に出かけ、元気に暮らしていました。平成16年12月に子供にも恵まれました。私共は機会を作り、食事を共にし、また孫の成長を楽しみに訪問していました。
 亡くなりました十カ月前の平成17年4月23日、自宅のマンションで自傷行為をし、日赤病院に入院しました。ゴールデンウィークには家族と中国に旅行すると連絡を受けていた矢先の出来事で、信じられませんでした。入院2日目、嫁とその両親が、病院を訪れ、息子と私どもを前にして、息子の自傷行為を人間失格だと激しく罵倒し、「今二人を連れて帰らなければ後で後悔するときが必ず来る」と叫び、「しばらく娘と孫を実家に連れて帰る」と言って引き揚げて行きました。
 入院中、精神科も並行して診察を受けました。主治医の話によると、二週間ごとにカウンセリングと投薬治療を続ければ、治るとのことでした。4日後退院し、主治医との約束を守り、治療を続けながら仕事をしていました。自宅のマンションにはメスの飼い猫が待って居ただけで、息子は、孤独と深い喪失感と闘いながら帰りを待ち続けました。
 しかし、一ヶ月後、嫁は息子の病気は治らないと一方的に決めつけ、離婚調停に進みました。私共は、病気を正しく理解してほしい、息子の今の病状を考え、離婚調停をもう少し先にしてくださいと懇願しました。又、調停員にも息子のうつ症状を手紙で訴えましたが、調停は続行されていきました。その間、東京での学会、九州などにも出張し、多忙な毎日でした。しかし、退院後約三か月過ぎた八月には、離婚調停や仕事のストレスから精神的に限界を感じたのか、病気の治療に専念するため、休職することになりました。
 息子の病気発症は何が原因だったのか?正確には知り得ませんが、この頃大学の研究室への派遣、それに伴う二か月に一度の研究成果の発表、昇格試験のためのレポート作成などが重なり、疲労がピークに達していたのかもしれません。これらの事は、生活を共にする家族のみが知り得ることではないでしょうか?。私共は息子が心の病を発症した直後に離婚調停を申し立てる側と、又、それを受け、調停を進める家裁側の無知蒙昧さに怒りを捨てきれません。
 自死した車の中の三方に、子供の写真を貼り、その中の一枚の裏に「すみません、親に三00万、子供に六00万残します。妻へ、離婚が人生最大の失敗でした。子供を立派に育ててください」と記し、また妻宛てのメモに「子供に会いたかったが写真で我慢します」と書かれていました。
 息子は人生を投げたのではありません。死にたくて死んだのでもありません。生きる知性も、体力も残されていましたが、最も倍額していた家族に、人としての尊厳を否定され続け、子供に会うチャンスをも奪われてしまい、生きる希望を失ったのだと思っています。そして何よりも私は母親として子供を助けることができなかった愚かさを悔いています。
 息子が旅立って、二年七か月過ぎようとしています。きのうよりも今日、そして明日と・・・・・・。息子に必ず会える日が来ることを信じて、生きて行きます。


息子へ
0・Mより

 どこを見ても あなたはいない
 なぜ どうして

 黙って何も言わずに逝ったの?
 親には・・・ 私には言ってほしかった!

 苦しいなら苦しい・・・と
 悲しいなら悲しい・・・と
 死にたいんだよーと
 死ぬことが離れない・・・と

 あなたを産み
 大切に育て 愛していたのです
 あなたを失った悲しみは
 一生消えません

 楽しいことなど もう 二度とないのです
 涙の流れない日はなく
 涙の川に流されて 生きています
 会いたいのです あなたに・・・ 


夢幻・無限

○ 又いつか生まれてくるね そんな気が 母はするんだ 離れないよね

○ 様々に問題多き この国を 子等に継がせる 危うさ思う

○ 一人なら すぐに沈んでしまうけど 輪になるならば 沈みにくいよ

○ どの家も 死の悲しみを語るなら 一人じゃないと 思えるものを

○ 見たいんだ お前住んでる世界って どんな仕組みになっているのか

○ 胸中に有る 固まりに火がつきて 行く道照らす灯り火となれ

○ 子を持つというのは 実は恐い事 それでも強い絆は残る

○ いじめられ 助けてくれる人も無く 段々弱って行ったの お前?

○ 少しだけ肩の力を抜いたって いいのでしょうか 疲れ取りたい

○ 子の事を 私 信じるつもりです 子を信じずに誰を信じる

○ 喪失の痛みを歌う歌流れ あなただけでは 無いと言いたい

○ 生きて行く不安はいつも あったけど 死を知ったから もう居直ろう

○ 良く生きて行こうとすれば 段々に 生きる気失せる 不思議な社会

○ 親の義務 一つ一つを果たしてる そう思ってた 甘かったのだ

○ 死を知って 人の心をやっと知る こんなに深いものだったかと

○ 私達馬鹿にされてるのが 分かる 遺族は何もわからないさと

○ 体験をしてみなければ 分からない この言葉って 人に言えない

○ どの様な からくりで 死に至るのか まるで略奪 神隠しです


詠人知らず

 死んでも魂があるから・・・ なんて 人は言うけれど
 見えない 聞こえない 信じられない 人間の私です

 まだ残暑の厳しい秋の朝
 あなたはこの世に生まれたのです
 とても元気よく
 育て方が悪かったのですか???
 命の大切さを 教えたつもりでした
 足りなかったのでしょうか
 死ぬ程の悲しみは
 母にはわからない
 あなたが逝って 母も死にたかった・・・

 でも死ねなかった
 恐かったのです
 息子よ・・・ バカな母です 


Oさん

 年老いた 私達を残し 逝った我が子へ
 桜を見ても哀しく
 月を見ても 星を見ても
 太陽さえ 青空も 悲しい 年老いた親
 この年まで生きて こんなことが
 自分におきるなんて・・・

 生きて下さい
 何もしなくていいのです

 仕事が辛いならやめていいのです
 寝てていいのです
 ゴミの中で暮らしていても
 生きていればいいのです
 お風呂に入りたくないなら
 いいではないですか そのままで
 アカでは死なないから大丈夫!

 連合いがイヤなら別れなさい
 生きていればいいのです

 借金があってもいいのです
 生きていれば なんとかなります

 何もしなくていいから 死なないで!
 生きて下さい・・・

 


真奈美

 死んだあなたも 苦しくて死んだことでしょう
 でも でも
 残された私も苦しい

 生きて一緒に苦しみたかった!
 生きていて欲しかった・・・

 死にたい 死にたい 死にたい 死にたい
 本当は生きたい 生きたい 裏返しかも
 死にたいよって 普通に喋れる友達が ありがたい

 時 まだまだ生きれる
 悩む力が弱くて死んだんじゃありません
 悩む力がありすぎて 死ぬんだよ 


いきる価値を見失った俺より
 
 うつになった人と暮らしたくないという
 別れたいと
 死にたいと言ったら 死ねば!と言われた

 マンションのローンもあるから
 働かないでいられるよりは
 死んでくれた方が・・・と 言われた
 未遂を何度かしたが・・・
 やはり妻は別れたい
 生命保険も入るから・・・と
 
 子供もいて・・・ 大学だから・・・ 入学金もいるから・・・ と
 俺の命は・・・ 生きてるより
 死んだ方が役にたつのだろうか
 そんなものなのかなぁ・・・・・・
 いのちって・・・・・・ 


2008年全国自死遺族フォーラムによせて
千葉  勉

 私はどうしても娘たちの為に話さなければならない事があります。それはいじめです。娘はいじめが原因で病気になり、 そして自殺しました。その経緯をお話したいと思います。
 この陰湿ないじめの背景には大人たちが関与しています。様々な職業の方、いろんな人たちが人から人へ、そして学校 へと、学校の不良たちに頼んでいじめをさせました。この写真の娘 が十二歳、姉が十四歳のとき、茨城県の大洗に引っ越しました。いじめはそこでありました。特に妹がひどいいじめにあいました。そのいじめの内容ですが、娘からきいたありのままをお話ししたいと 思います。ある日、娘たちとテレビを見ていました。その時、偶 然にいじめを受けて弁護士になった女の人が出ていたのです。それを見て、妻が「いじめを受けても立ち直って弁護士になった人が出ているよ」と言いました。その時、娘が初めてです。いじめに関して口を開いてくれたのは・・・このように言いました。「お父さんお母さんは何も分からないかも知れないけど、私は転校したとき、中学三年生の頭を金髪にした不良たちが二十人くらい来て、私を脅し、そしてトイレの中に連れて行き、押し
込まれた。それが一日に何十回も授業が終わる度に続いた。それが怖くて、怖くて、未だに夢に現れる。それから教室では男の生徒が三人で、私は盗んでいないのに、「お金を盗んだのは千葉だ、とそれを言いふらして、クラスの人が全員その人の真似をして、千葉が盗んだ!千葉が盗んだ!と言うようになった」そして先生は「本当に盗んだのか、千葉?」と言ったので「いいえ、私は盗んでいません」とハッキリ言ったそうです。そうしたら、先生は教室の後ろに全 員座らせて目をつぶらせ、「やった人は黙って手を挙げなさい」と
言ったそうです。「誰かてを挙げたのか」と訊くと、「誰も手を挙げない、逆に後ろのほうから男の低い声で、千葉、早く手を挙げろ、みんなに迷惑かかるから」と・・・。「それでどうなったんだ?」と訊くと「盗んだ人が分からないために私が犯人にされたままだ」と ・・・。その時、私は「その三人だ!お前にいたづらした人達は」と言いました。
 学校ではそのようにいじめられ、家に帰る途中でまた、不良たち十人くらいに呼び止められ、「千葉金を貸せ」「お金はないんです」と言うと、「売春でもやってこい」と、そのように毎日下校時にいじめられていたそうです。いろんな因縁をつけられて、いつも囲まれていたようです。そのため、娘はいつの日か保健室で勉強するようになりました。保健の先生は「私が分かるところだけ教えてあげていた。私がいればこういう事は起きなかったかもし れない」と言っていました。
 それからお姉ちゃんのほうはどうなんだと訊きました。「私もトイレに行くとき、廊下を駆け足で逃げて歩いていた」と・・・。「なぜなんだ?」と訊くと、みんなが「千葉死ね!千葉死ね!」と言うのだそうです。「同じクラスの子か」「中学三年生の全員が言う。それを真似して、全校生が罵声を浴びせる」そうです。このように二人は毎日いじめにあっていたわけです。心の休む暇がなかったのです。それでも姉のほうは高校に行って、強い友達が側についたため、なんとかなったようです。
 しかし、妹のほうは保健の先生が異動になったのです。そうすると妹は頼る人がいないわけです。学校でかばってくれる人がいなくなったのです。そのため、学校を休みがちになるわけです。「今日は運動会の練習だから勉強が無い」とか「今日は写生会だから勉強が無い」とか、いちいち理由をつけて休むようになりました。それがある日、スカートが汚れて、泣いて帰ってきたのです。その時たまたま妻が仕事を休んでいて家におりました。その時休んでいなかったら、またいじめは分かりませんでした。「どうしたんだ?」と訊くと、泣きながら「不良たちが私を七人で神社に連れて行って脅かして、神社には十七歳の少年 院あがりの少女がバックについて、鉄の棒を振り回して、七人に一人ずつ私とケンカをやらせたのだ」と言いました。七人とひとり・・・。それで泣いて帰ってきたのです。
 しかし、学校側は何をやっていたのでしょうか。一年生で転校したとき、すでにいじめは始まっているわけです。まして保健室に逃げていて、一人で勉強していたのですから、現実にいじめはあるということです。なぜいじめに対して適切な対応もせず、親にも連絡してくれなかったのは何故でしょうか?これはおかしいです。学校側はいじめがあった事を知っていても、ひたすら隠す事、何事もなかった様に卒業させる事しか考えていないような気がします。あまりにも教育者としての責任がなさすぎると思います。せめて担任の先生くらいはこのような事を言って欲しかったです。「今、千葉さんは保健室で一人で勉強しています。先輩の真似とか他の生徒の真似をしないでください。誰か心当たりはありませんか。もしも皆さんが他の学校へ転校したとき、千葉さんみたいに上級生の不良達が何十人も来て脅かされ、毎日トイレに押し込まれたらどうでしょう。しかもそれが長く続く のですよ。怖くて、怖くて、勉強は身に入らないと思います。それから同じクラスの子に盗んでいないのに盗んだと言われたらどうですか。辛いでしょう。苦しいでしょう。そうしたら、どっちが悪いですか。小学一年生でもわかりますね。そしたらやめましょうよ。いじめを。皆さんが今保健室に行って千葉さんに声をかけてあげなさい。一人で勉強していますから、かわいそうだと思いませんか。皆さんがそのようにしたのですよ。人を助けるとか困っている人に手を差しのべてあげることは良いことです。それが本当の正しい人間なのです」とこのようなことを言っていただければ、生徒の状況も少しは変わったのではないかと思うのです。教育者として監督義務を怠った事と思います。
 それで、娘はもう学校へ行きたくないと言いました。「じゃ、引っ越すか」「どこへ行ってもいたずらされるね」「じゃ、水戸へ行こうか」「もう茨城県はいやだ。一人もかばってくれる人もいないし、味方になってくれる人もいない。全部いじめる人ばかりだ」「じゃ、どこへ行く?」「宮城県に帰りたい」と言うのです。それで宮城県に帰ってきました。帰ってきたけれど、娘の精神状態はボロボロでした。高校は何とか間に合いましたが、一週間目で行かなくなりました。「どうして行かないんだ」と訊くと「また同じことになる。また不良が声をかけてきた。仲間に入れ」と・・・。それで行かなくなったのです。
 学校へ行く前にいつも額に汗をかいていましたので、「どうしてお前はいつも額に汗をかいているんだ?暑くないのに」と訊きましたら「トラウマだ」と「フラッシュバックだ」と言うのです。聞きなれない言葉だったので、それはどういう意味だと訊きますと、「いじめられたことが残ってる。それが心に残っているんだ。現実にそれがよみがえってくるというのです。額の汗は冷や汗だったのです。それで学校に行かなくなり、近くの精神科に二、三カ所通院していました。そこで精神安定剤(睡眠薬)をもらっていました。私も何回も送っていたのでよく憶えていますが、それでも良くなりませんでした。(マザーテレサの本を持って教会の前で立っていたそうです。神に祈りを、救いを求めたのだと思います。)それで娘は教会に行きました。頭から聞こえる声、それからトイレに入れられた夢、怖いその夢が現れないように、神さまにお祈りして治してもらいんだ、と言っていました。
 しかし、教会に行ったのはいいのですが、入ってはいけなかったそうです。人が大勢おりますから・・・。そのため、一番後ろに育児室があるんですけれど、そこでガラス越しに話を聴いていたそうです。その期間はどの位かかったのかわかりません。そのときの思いを書いた娘のノートがありますから、読んでみます。
「イエス様へ
 今日も私の心は悩んでいるままです。聖書にきこうと思ってもどこを読めばいいのかわかりません。イエス様どうか教えてください。生きていくこと、愛すること、どんな意味があるのでしょうか。私はいつも不安です。イエス様、どうか助けてください。助けてください。聖書のどこを読めばいいのか教えてください。」
「イエス様へ
 今日人の前に出られて、人の中にいることができました。本当にうれしくて、うれしくて、仕方がないです。だって、今日も絶対無理だと思っていました。これは絶対自分の力
じゃないって、感じました。イエスさまは私が悩んでいることを本当に知っていて、本当に助けてくれたこと、本当にうれしいです。今日は話をすることができて、牧師先生とも話をすることが出来ました。少しずつだけど牧師先生にも心を開いてきているよう気がします。もっともっといろいろなことをお話しできるようになりたいです」と書いてあります。
二歳くらいの子供が話ができたとするなら親としてはうれしいです。が、しかし、大人になった娘が人に混ざれない、ろくに話もできない。この娘は小学六年までは普通の子供でした。教室でちゃんと勉強をして、友達とも遊び、よく近所の子供たちとも同級生たちとも遊んでいました。ごく普通の大人しい優しい性格の子供でした。その娘が大人になっても話ができない、人に混ざれない。これは相当ないじめがあった事に間違いありません。娘はいじめで精神状態が少しずつおかしくなってきたのだと思います。
 例えば、子羊一頭に何十頭の狼たちが群れをなして取り囲むと、羊はただ脅えて震えているだけで、逃げ出す事もできません。このような状況、十二歳から十五さいまで続いた為、おかしくなってきたのだろうと思います。どうしても集団で取り囲まれると圧力がかかり、力で押さえうけられるような感じになります。それがとても長かったので、怖くて話ができなかったわけです。十二歳から十五歳という一番大切な時期に、心に受けたダメージは相当なものだったと思います。
 しかし、これは誰が計画したのでしょうか。子供にいたずらをするなんて・・・。普通の大人達は子供に「仲良くしなさいとか、いじめては駄目だよ」と指導する立場です。それが子供に対するいたずらを頼むなんて・・・。それを頼まれた人もどうしてそこで止めなかったのでしょうか。悪いことを知っていて、そのいじめを計画した人にそのまま協力して、それを不良たちに頼んでいじめをさせた・・・。このグループは犯罪グループで、悪質な犯罪だと思います。毎日、二十人以上の集団に一日五回もトイレに連れて行かれ、いじめれば、百人以上の人数になります。それが十日続くと千人以上の人数になり、それが長く続くと何万人で、二人の子供をいじめた事になります。どんなに怖かったのか計りしれません。それでは夢に出てきたり、頭の中から声が聞こえてくるのは当たり前です。それでも今日はいじめをやめてくれるだろう。今日こそはやめてくれるだろうと思い、辛い思いで学校へ行っていたと思います。私達、親は教室で勉強していたと思っていました。本当にかわいそうでした。どんな人であろうと、どんな職業の人であろうとなんの落ち度もない、何の罪もない十二歳の子供に対して、毎日集団でむごいいじめをした事は事実で
あり、許すことはできません。あまりにも残酷でひどすぎます。この様な人は人間として失格です。娘に対して一生涯謝り続けて欲しいと思います。
 ある日、娘が一晩中寝ないで電気をつけっぱなしにしてあり、私は心配で、襖を少しあけて様子を見ていました。娘は一晩中話をしているのです。その動作はこのようにして人を指して、それを私は見ていました。私にはすぐにわかりました。心の中に思っている事が出ているのです。いじめた人たちに何かを話しているのです。「あなたも入っていたでしょう。あなたもトイレに押し込めたでしょう。私は何もしていないのに、神社に連れていって七人ではたいたり、蹴ったりしたでしょう。盗んでいないのに、盗んだって言ったでしょう。あなたも言ったでしょう・・・」と一晩中話をしていました聞こえてきて、しかし、口からは声がかすれて少ししか聞こえないのです。怖いために、いじめられたために、声が出てこないのです。今迄、我慢していたのが出たのだと思います。私は心配なので、一晩中起きていました。
 翌朝、大きな病院に連れて行きました。診察の結果、精神分裂病(今は「統合失調症」という呼び方になっています)だと言われました。大変ショックを受けました。「すぐこの場で入院です。閉鎖病棟に入れます。自殺の恐れがあるので」と言われました。鍵のかかっている病棟です。約一ヶ月入院して治療しておりました。その後退院させ、自宅で療養しておりました。精 神安定剤とかいろんな薬を飲ませ、夜は睡眠剤を飲ませて眠らせ
ていました。ところが、睡眠剤が切れる時間帯だと思うのですが、 朝四時か五時ごろに起きていました。「どうしてお前こんなに毎日早く起きるんだ」と訊いたところ、布団の横で黙って座っていました。「頭から何十人の声が聞こえてくる。それで目が覚めるんだ」と、「がやがやがやがやと頭の中で話をしているんだ。」と「何十人って何人位なんだ?」「二十二、三人位はいる」というのです。娘はトイレに入れられたとき、押し込まれて震えながらでも聴いていたのですね。十二歳のときのことです。それが正しい人数だと思います。それが聴こえてきて、夢にまで出てきたりして怖いというのです。それから自殺する三、四日前ですが、教会の奥さんに会いに行っているんですね。「絶対その声は聴かないように。それはサタンの声だから。悪魔の声だから聴かないように」と言ったのですけどね、と奥さんは言っていました。
子供の日でした。九階から飛び降りました。なぜ九階なのだろう、なぜ子供の日なのだろう、九=苦しい、その声が頭の中から苦しいために九階なのかなと、それならなぜ子供の日なのだろうと・・・。この娘がよくお姉ちゃんに話をしていたのですが、「大人になりたくない、子供のままでいたい、ピーターパンのままでいたい」と言っていました。大人になるとまた社会に出ていじめられる、家にいれば安心ということが頭に入っていたのでしょう。そしてその二年後、今度は同じ場所、九階から姉のほうが飛び降りました。PTSDという病気でした。
 このように私には二人の娘がいたのですが、二人とも亡くしました。夢も希望も途絶えました。このようになったのは全ていじめた人たちの責任です。もし、いじめがなかったら、今日私はこの場で話をしていません。この話をある数人の人に話したところ、偶然に学校の 先生が二人いました。いずれも年配者でした。男性と女性です。まず、男性の方はこのようなことを言っていました。「私は教員を三十五年やってきたけれど、一度もそのようないじめはなか た。一対一の喧嘩はあったけれど、一人の人間に集団でやるのは最低だ。一番悪いやり方だ。それでは娘さんの頭がおかしくなるのは当たり前だ。それは学校側に責任がある。分からないわけがない」と怒っていました。「どうして教育委員会とか役場に行って相談しなかったんだ」とも言われましたが、娘はろくに勉強していないため、なんとか高校に間に合わせたいと思って、引っ越しの事しか考えていませんでした。
 それから女性の教員、その方も三十五年やってきた人です。「そのいじめは引っ越ししてすぐなの?」「そうで す」「それはおかしいね、誰かが頼んでいじめさせたんでしょう。しかも上級生が二十人なんて。保健室に逃げて勉強しているんでしょう。そうしたら学校は知っているでしょう。校長先生あるいは教頭先生、いじめがあるみたいですよ、と上の方にそういうはずです。」
 また、ある主婦には、「そのいじめが本当だったら、私は許すことができない。私も同じくらいの娘がいるし、そのいじめた人達の子供や孫のところに必ず何代目かには返っていくよ。映画に出てくるような、ドラマに出てくるようないじめでびっくりする。本当に娘さんかわいそうだったね」と言われました。
 それから、元警察官には、「そのトイレに入れたのは監禁状態にしたことになる。それから盗んでいないのに盗んだとするのは名誉毀損、誣告罪に値する。そして、神社に連れてきて暴行させるというのは暴力行為。それは全て犯罪だ。弁護士に頼んで訴えなさい」と言われました。四人が四人とも「学校側やいじめた人達が悪い」と言いました。これが正しい人の見解だと思います。
 犯罪に巻き込まれない様に子供達を守らなければな
らない立場の大人達が犯罪を強要し学校の不良達に実行させた組織ぐるみの犯行で身勝手な悪質なやり方は許される事ではありません。
 娘を一方的に悪者にし、集団で毎日いじめを繰り返した行為は大人でも恐い人数です。まして年端のいかない十二歳の娘にとってはどんなに恐ろしく怖かったのか計りしれません! 娘にとっては立ち直れない程の相当ないじめが日常的にあった為、人を恐れる様になり、悩みを隠したまま成長していき誰にも相談出来ず精神的な病気を患い学校時代の恐ろしい出来事が甦り部屋の中で涙を流している姿がしばしば見受けられました。「何故泣いているんだ?」と聞くと「私何んにも悪い事していないのに同級生とか先輩たちにみんなにいじめられた。その時の何十人の声が頭の中から聞こえて恐い」と言っていました。
 病気になってから特にひどく聞こえるようになり、苦しんでました。「お前を苦しめてこの様にした人達は必ず後から罪が当たるからなあー」と言いました。あまりにも恐ろしいいじめが毎日続いた為、頭に記憶されて離れないと思われます。「お父さん、私、二十代で死ぬかもしれない」「何故なんだ?」「私の生命線が途中で切れている」「そんなの迷信だから心配する必要ないからお父さんも同じ手相だから、それより病気に負けない様に頑張ろう!」「他の人に幸せがあっても、私には幸せがない!」「何年かかってもいいから病気を少しずつ治して行こう!そうすれば必ず幸せが来るからなあー」と言うと「うん」とうなづき安心した表情で床に就きました。この様な状態が毎日の様に続き耐え忍んでいましたが、しかし、頭から聞こえてくる声が一向に治まらず生きる気力を無くし、自ら命をたちました。二十三歳でした。
 たった一度しかない人生をいじめという行為に依り無駄にされ長い間、悪夢と幻聴に苦しみ続けどんな思いで死んで逝ったのか娘の心境を考えるとあまりにも可哀想で可哀想でなりません。
 何故この様ないじめをさせたのか、させなければならなかったのか。このグループ一人も良識のある人はいなかったのでしょうか?「これは間違っているぞ!やめろ!」とか注意をして止めてくれる正義感のある人はいなかったのでしょうか?この人達は取り返しのつかない罪を犯し娘を精神的に苦しめた凶器の無い殺人だと思います。せっかく育ててきた二人の娘を失い、本当に悔しく強い憤りを感じ、恨んでも恨んでも恨みきれません。
 親の悲しみ苦しみは深いものであり、一生涯消える事はありません!法を犯してまでいじめを強要させた心のないこのグループは自分達の欲望から人に災いをもたらし、人を苦しめ悪に誘導する犯罪集団であり、許す事の出来ない重大な過ちを犯した事になります。この人達には必ず天罰が下りいつの日か私の娘達にした様な事が因果応報で返って行く事でしょう。
今、妻と二人で暮らしています。娘の壇に手を合わせるとき、胸が痛みます。引越していなければ良かった、辛い思いをさせてしまった、苦しい思いをさせてしまった、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、と謝る他ありません。
 男の私でこんなに苦しいのですから、腹を痛めた妻はもっと苦しい訳です。このように私たちを不幸にしたのも、子供たちを不幸にしたのも、全ていじめた側の全責任だと思います。絶対、百パーセント、いじめた人達といじめを頼んだ人たちが悪いです。
 最後に、妻のメッセージがありますので、読まさせていただきます。
「二人の娘を授かり、すくすく育っていく姿を見て幸せを感じて過ごしていました。茨城県に引越し、まさか娘たちがいじめにあっているとは思いもしていませんでした。私が最初からいじめに気がついていれば、学校に抗議に行ったことでしょう。病院に入院し、娘の症状が次第に変わっていくのを見て、涙が止まりませんでした。なぜ娘がこんな病気になってしまったのか。私はいじめた人たちも同じ苦しみを味わい、同じ病気になってもらいたいという気持ちです。これから娘たちは結婚もし、子供もできたことでしょう。私も孫を見られたかも、と夢がありました。それをいじめという行為で、娘たちの、そして私たちの幸せを全部奪い取ってしまいました。娘が話をできなくなるほど、脅かし、苦しめ続けた人たちを私は許すことができません。」
 これで終わらせていただきます。


「彼は生きていたかった」
田中 幸子

 息子の健一は、三十四歳、警察官警部補の時、三歳半の娘を残し、平成十七年十一月十六日、突然に死・・・、自死でした。
 同じ年の五月に、多賀城市内で飲酒運転によるRV車事故がおき、高校生が三人亡くなりました。その時、息子が事故処理担当係長でした。その日休みだった息子は、呼び出され、その後、四ヶ月半、一日も休むことなく働き続けた末に、心と身体は少しずつ崩れ、とうとう自死に至りました。息子が自らの生命を絶つなんて、今でも信じられません。一七五Cm、九十kg、ヒゲの濃い、くせ毛でなで肩、低い声でゆっくりと話し、年配の人や子どもが大好きな穏やかでやさしい息子、健一。息子の写真が飾られた仏壇には、警察時代の辞書や、数少ない遺品が残り、今でも家を空けることはできません。ずっと息子のそばで生きています。
 健一は、昭和四十六年九月二十二日の午前九時二十七分、千葉市の小さな医院でこの世に生を受けました。二千七百三十グラムで少し小さな男の子。健康で丈夫にとの願いで建一と名づけました。父親の仕事の関係で、古い官舎の狭い二間での生活でしたが、ご近所の方にも可愛がられ、私たちも育児書を何冊も読み、母乳で育てました。甘えん坊だった健一は、二歳を過ぎても、おっぱいから離れず、遊んで走ってはおっぱい、ご飯を食べてもおっぱい。そんな様子を見ていたご近所の人たちから「もうおっぱいを離さなきゃね」と言われ、自分で決意をした時の大変だったこと。道路の水溜まりに寝転んでは、足をバタバタさせ泣き続け疲れては眠り、また騒いでは眠り・・・。そんな繰り返しが三日ぐらい続きました。小さい頃、甘いものが大好きで虫歯が多く、東京にあった幼児専門で花王のライオン歯科に千葉から通い、フッ素を塗ってもらっていました。帰りには必ず日本橋の高島屋デパートでお子様ランチを食べるのが定番でした。お気に入りは、ハンバーグとエビフライと日本の旗が立ったたまごチャーハン。いつも喜んで笑顔でおいしそうに食べていました。公務員で若くして結婚した私たちは、おやつは手作りで節約をし、贅沢はできなかったけど、その分で牧場や動物園、スキー場、海、山と一緒に遊び楽しく幸せな千葉での生活でした。タレ目で、笑顔のおしゃべりな健一は、私たちにとっては、可愛く、何物にも変えがたい宝物でした。
 父親の仕事の関係で、健一が四歳の時に、青森に引っ越し、その後も、小、中、高と転校の連続でした。転校の度に、その地方の言葉の違いから健一の話す言葉が反感をかい、かっこつけ〟〝「ボク」だって!〟と色々言われ、また時には、よくアザ作って帰って来たこともありました。官舎生活という事あり、挨拶、礼儀、他人様に迷惑をかけないようにと育てました。そのかわり家では「自由に家族だからどんな事でも助け合おうね。泣きたい時、辛い時、愚痴りたい時、だらしないのも家の中はいいよ」と育てたので見事に家のなかではダラダラと甘えて大きくなったようです。
 息子は、小学校の先生になるのが夢でした。しかし、大学受験に失敗、私たちには私立大を受けさせるお金がなく、私大の受験も出来ずにアルバイトをして暮らしていた息子に、私の夢だった警察官のことを話してみたら「受けてみるよ」の返事で、警察官の道に進んでいきました。一次試験合格。二次試験の面接には、背広でなくジーパンに白のシャツで出かけました。たった一人だったその服装に面接官はびっくりしたと後から言われたようで、息子はありのままの自分の姿を見てもらいたいと思ったようでした。アルバイトの自分は、借り物の服装ではなく、この姿が正装なのだと伝えたかったようでした。見事、警察官に合格し、最初は交番勤務で楽しそうでした。
 その後、逮捕術の大会で活躍し、素手での対決は田中の右に出るものはいないと言われ、特待生に選出され大会にもよく出ていました。逮捕術の指導もしていたためか、管区機動隊に勤務し、成田や青森、もちろん仙台もですが皇族の方々が来県される時の警備を長くしていたようでした。
 仕事を離れると普段はオチャラケな性格。ある時、夜中に車で出かけ、自動販売機でジュースを買っていたらパトロール中の警官に職務質問をされたそうです。「何をしているのか、君は」と聞かれ、「ジュースを買っています」とだけ答え、あれこれ質問を受けてから、パトカーの中で待機していた同僚に「おっ、ご苦労さん」と言ったら、慌てていて面白かったよ、と楽しそうに話してくれました。
 お酒を飲んで身体が熱くなるのが好きじゃないと言って、好んでお酒は飲まなかったけれど、楽しく皆で飲むお付き合いは大好きで最後のカラオケまで付き合って、独身時代は朝帰りもよくしていたようです。
 趣味はスキー、スノボー、音楽、本、映画、旅行、車、パチンコと多趣味で楽しんで遊んで、仕事も一生懸命でした。給料なんて二週間もしたら使い切って後はなんとかなるかと言うような暮らしでした。健一は、次男と私とも兄弟のように仲良しで、恋や失恋、お金のことも一緒に相談しあったり、三人でよく遊び、楽しい時間でした。手作りの料理が大好きで食事もなんでもいいから家で!と言いました。私が留守のときは次男がチャーハンや卵焼き、焼肉など何でも作ってそれを「うまい!うまい!」と食べていました。
 新しい配属先での初めての仕事が飲酒運転によるRV車事故。仕事のやり方や書類の書き方など慣れないままに、他の事故も重なり、山のような仕事に追われていき、「誰かに手伝ってもらったら?」という私に、「みんないっぱいなんだよ。俺の仕事だから仕方ないよ。いんだ」と呟いていました。夜遅くまで仕事をし、朝早く出勤しては今出勤したかのように気を使い仕事をしていたようです。そのうち、パトカーの音がすると寝付けなくなり飛び起き、目まいや吐き気、耳鳴りがするようになり、息子の身体は少ずつ崩れていきました。仕事の合間に病院に通い薬を飲んでいましたが、 彼の様子を見て目に力がないのを感じた私は、精神科を勧めました。仙台市内の病院に行ったのですが、医師の心ない言葉にさらに傷は深まり、彼は精神科に行くのを嫌い、職場の近くの心療内科に通うようになりました。しかし、健一の心と身体は一向に良くならず十月に は、自宅療養という形で仕事を離れ、休養することに。
 しかし、その家庭でも彼は休む場所がなかった ・・・。病気で心身とも衰弱しきった彼の姿を嫁は理解できず、彼に温かい言葉をかけてやれなかったようです。私は息子が亡くなってから初めて家庭内のことを嫁から告白され知りました。最後の一週間、健一は一人ぼっちでした。一人で三日間、何も食べず、飲まず、そして電話にも出ず、家族に信号を送っていました。玄関のドアは鍵をかけずに、最期の一瞬、誰かに止めて欲しかったのでしょう。四度五度とネクタイをひきずり、無理矢理生命を終えました。彼の眼鏡は涙の塩で真っ白でした。どの位の涙を流したのでしょうか。泣き虫の彼は、三日間泣き続けたのでしょうか。
 息子の様子が心配だった私は亡くなる五日前、メールや電話を交わしました。十一月十二日(土)一通目のメール、健一より。
「確かに今回に限らずいつも俺が悪いのは分かっているし、仕事の事だって、ちゃんと復帰できるか毎日危機感持って考えています。自分の体調に関しても良い時と悪い時があって、悩んでいるんです。だから今は外からいろいろ言われたくない。俺だって一応それなりに考えています。昨日はあなたかが突然来たから気分が悪くなって薬を飲んでも眠れず、今も具合が悪いです。心配かけたのは悪かったけど、有難いけど、突然来るのは止めて下 さい。ズルズルさぼっていると思われているんじゃないかと悩んでいたけど、やっぱり・・・」
 それに私が返事を書いて送りました。十二時二十五分、二通目のメールが届きました。
「自分でも今の状況は苦しいのです。分かってもらおうとは思わないけど、ちゃんと復帰できるかどうか毎日不安で仕方ないのです。かえって休まないでもう少し我慢した方が良かったかもね。とにかく、今はあまり干渉されたくないのです。悪いのは十分わかっているつもりです。心配してもらってありがたいのですが」
 再度、私が返事を送りました。十八時四十六分、三通目のメールが届きました。
 「仕事はもう少し様子を見てから決める。今はまだ復帰は怖いです。心配してくれてありがとうございます。すみません。では」
 その後、電話で話をし、息子は大丈夫だから心配しなくていいからという話でその日は終わりました。十一月十三日(日)に嫁たちが息子のところに戻る約束でしたので、親がでしゃばりすぎても・・・と思い、その後四日間、メールも電話もしませんでした。しかし嫁たちは、日曜日には戻らず、月曜日に嫁とその母親が一緒に、息子がいる官舎に行き、三人で話合ったようです。十一月十六日(水)、その三日後に健一は亡くなりました。
 息子は四年半の結婚生活でお金も物も生命も失い、本当の意味で裸の骨だけになり戻ってきました。息子の家庭内のことは初めて知ったことばかりで、私は言いたいことが山ほどありました。反論しようとする私の姿を見た次男がこう言って止めました。「お兄ちゃんは争うのが嫌で死んだんだよ!お兄ちゃんの遺骨の前で争うのはやめなよ!」と・・・。私はただただ、それに従いました。
 仕事、病院、家庭、すべて人間関係です。私を含めほんの少しの思いやりがあったら助けられた生命。息子は好んで死んだのではなく勝手に死んだのではなく、もう生きられない、生きていても仕方ないと絶望に追い込んだものは何でしょうか。その問いかけを生きている私たちが受け止め、やさしい人がやさしいままで生きられる世の中にすることの責務が私たちにはああると思うのです。
 ひとりひとりの魂は平等なのです。言葉は大切です。少しの思いやりの言葉は、人に生
きる力を与え、心ない言葉は人を絶望させ刃物よりも心を傷つけ、手を下すことなく人を死に追いやります。金欲、物欲、快楽、楽やきれいばかりを求め、心を忘れていないでしょうか。生命は心にあり、身体も心にあります。夫も次男も私も、お兄ちゃんを誇りに思っています。
三十四年間頑張って生きました。真面目でやさしく、人を思いやり、人のせいにせず自分を責めて逝ったのです。一生懸命学び、働き、時には遊び、生きたのです。彼は生きていたかったのです。彼の周りに生きている私たちが彼の心を傷つけ、悲しませ苦しませ、追い込んだのです。身が震えるような気の遠くなる悲しみと苦しみだけど、彼が生きていたという証のために私は生きると彼に誓っています。
 お兄ちゃんを愛しています。これからもずっと私のかわいい息子です。いつも、いつまでもあなたを想っています。彼に逝かれてから半年後、自死遺族の集い「藍の会」を立ち上げ、予防活動のため「藍色のこころサロン」を立ち上げ、様々な形で子どもを亡くした親の集い「つむぎの会」と三つの会を開いています、藍の会の「藍」は、息子の誇りの警察官の制服の色と彼の好んだTシャツの色、息子の色です。つむぎの会の「つむぎ」は、子どもの生命と親の生命をつむぎ合わせるという意味を込めています。生命は親から子に代々受け継がれ、今を私たちは生かされています。自分の生命も、周りの生命も大切にしましょう。同じ「生命」です。